Today's Terapika寺門孝之です。

Back Number 20001009

 

 2000年10月9日、月曜、朝から気持ちよいほどの大粒の雨がざんざん降って、一瞬上がった隙にランチ、その後途端に大雨アンド神鳴り。ドカンドカンと大騒ぎ。僕はアトリエで静かな「絵」を仕上げつつ、やんややんや、と喝采。

 さて当サイトのBBS“えんがわ”。たくさんの話題が交錯し、なんかイイ感じ。もっともっとカオスへ、どんどこ。

 で、その中、三枝さんから寄せられた質問に対して、僕は解答を拒絶してしまったのですが、そのことについて、けふは補足説明をさせていただきます。題して

「人生」無しで「道」無しで

 昨年7月、このホームページを立ち上げた最初のtoday'sに、僕は、僕においてプライオリティ(優先順位)は厳然としていて、何よりもまず、「絵」のタメになるかどうかが僕の行動基準だ、っていうことを書きました。そしてこの“てらぴかのえんがわ”は、果たして、「絵」にプラスなのか、「マイナス」なのか、とにかく進めていこう、って。

 で、ここまでつづけてきて、おおむね、「絵」に悪い影響は見られません。むしろ、「絵」をエスカレートさせてくれる時も、ま、ま、あるな、と思っています。ここに関わってくださっている皆さんのおかげです。ありがとうございます。

 ところで、ここ最近、連続・不連続で僕の「絵」にまつわる経験談を「秘伝」として書いてきました。いろいろ反響もあり、それについての質問も寄せられ、今もその渦中。書きながら、答えながら、僕自身、いくつかのことがクリアになってよかったなと思っています。

 で、昨日の三枝さんによる質問になるのですが、こんな質問です。

「まったく素朴な質問で恐縮ですが、
てらぴかさんはなぜ絵の道を選ばれたのでしょうか?
(あるいは、なぜ絵によって導かれたのでしょうか?)
てらぴかさんとおつき合いしていて、いつも、
きっと絵に限らなくともその才能を発揮したであろう
多才かつ高いポテンシャルに感心すると同時に、
そこをあえて絵にこだわり続ける、
その並々ならぬこだわり方それ自体に
感心させられています。
たぶん断片的には、
具体的な出会いや出来事に触れつつ、
これまでも書かれていることと思いますし、
当然ながら、生まれついての環境や性分に関する段階、
また子供時代のエピソードにまつわる段階、
大学で学部を変更された段階、
セツに入られた段階、
東京から神戸へ戻られた段階・・・
といろんな段階を経た上でのことで、
ひと口に語れないことだとも思います。
ただ、僕のような<一つのこと>にはまれない人間、
そして絵を描いてない人間にとっては、
<絵以前>の話もまた、
ある意味で<絵の秘伝>の一部のような気がして、
あえてあらためてお聞きしてみたいと思った次第です。」

 これまで僕がここに書いてきたのは、常に「絵」の具体的な作業の中での経験の話しに限られています。が、三枝さんの質問は、そうではなくていわば、ひとつメタなレベル、つまり『僕がなぜ、「絵」を描き、なにゆえそこまで「絵」にはまり、専念しているのか、専念できるのか』ということをお尋ねになっています。さすがは名編集者、鋭い質問です。

 そういえば昨年、友人のアート・プロデューサーの方から『創造の秘密』というテーマでインタビューをしたいという申し出があって、その時も全く同様、僕のプライオリティチェック機能がビービー音を発し、辞退させていただきました。

 僕はなにに対してこんなにも神経質に反応しているのか、は、僕にははっきりわかっているつもりです。それは、これらの質問が、僕の考える「現実」に対して、メタなレベルでの解釈を要求すると思われること。僕のひとつひとつの具体的な経験だけでなく、それらを俯瞰し、連なりを発見し、何か意味あるような推論をしなくてはならなくなること。それは言い詰めれば、質問の背景として、「人生」とか、たとえば「絵」だったら「絵」の「道」、というメタ・コンセプトが見えること。

 僕の、被害妄想的なヒトリガテンかもしれませんが、僕は質問の中に、僕の「人生」「道」といったコンセプトへの言及を求めている、と察知するやいなや、逃げ出すのです。なぜなら、「絵」を描くうえで、いや、ただ生きていくうえでも、「人生」や「道」という単語を持ち出すのは、何の意味もない、と僕は信じているからです。(ただたんに、僕が思っているだけですので、わがまま、と思って許してください。皆さんがどうお考えになろうと、それはご自由に、あったりまえのことですが)。

 僕がここにいる、ただそれだけであって僕の「人生」などというものは無い。ただ絵を描く行為とその結果である絵があるだけで、絵の「道」などというものは無い。あるとしたらそれはココロに幻想としてあるのであって、それを俯瞰したり、実際にそこを歩んだりできるもののように語っていると、ホントウにあるみたいに思えてきて、実際の「僕」のことともうひとつ別に「僕の人生」のことを考えなくちゃならなくなり、実際に絵を描く行為のほかに「絵の道」について考えなくちゃならなくなり、時間が足りなくなってしまうのです。

 僕がこの世界におぎゃあと生まれ、存在すると、当然、それまでいなかったものがいるわけですから、世界と僕の間に摩擦・軋轢が生じ、あらゆる種類の「事件」が起こります。いい事件も悪い事件も、どんな事件でも起こり続けます。僕がこの世界にいる限りそれは止むことがありません。

 で、僕は、この世界の主役はこうして僕とこの世界の間に生じる「事件」であって、僕自身などではないと、思っています。1点1点の「絵」もそうした「事件」のひとつひとつです。そして1枚の「絵」も、先述したように無数の「事件」の連続によって成るのです。じゃあ、どうしてそんな考え方になったのかって訊かれても、それは、ビービー!なのです。

 三枝さん、こんなマトモぢゃない答えで申し訳ありません。このビービー音のおかげで、「絵」が描けてんだな、と思ってどうか許してやってください。

 というわけで、質問はできるだけ、具体的に、かつおてやわらかに!

 from terapika

 

「天使からのおくりもの」

凰宮天恵/著  寺門孝之/絵

大和書房 本体1100円+税

 

僕が看板・壁画など描いた店が
12月3日オープンしました。

Cafe Hahn Hof(カフェ ハーンホフ)

神戸市中央区明石町32
tel :078−321−0415
(元町・大丸の南、フェラガモとか入ってる明海ビルの地下1階)

 

Days of Angels
天使のカレンダー

絵*寺門孝之 / 文*三枝克之

リトル・モア  ¥1500+税

全国書店にて絶賛発売中!

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